アダムの善の表示体として立ったアベルは、「生心」と「肉心」から見た場合、アダムの「生心」を代表した立場と見ることができます。またカインはその観点でみればアダムの「肉心」を代表した立場と見ることができます。(図18)
この二人がアベルを主体として、カインを対象として一体化すれば、アダムの中の「生心」を主体として、「肉心」を対象として一体化した結果となると見ることができます。(図19)
アベルにおいては、神様が供え物を受け取って下さったということは、アベルの生心に神様の愛が注がれたのであるから、自分を愛して下さっている神様の愛でカインを愛さなければならなかったのではないでしょうか。
まず神様の愛を受けたアベルがカインの肉心に語り掛け「不安・恐れ・心配」を取り除いてあげなければならなかったし、と同時に生心にも働きかけ「カインも神様から愛されている」ことを悟らせていかなければならなかったのではないでしょうか。(図20)
ハムは肉心を中心として父ノアの裸をみてしまったのでしょう。父親としての存在意義や愛、生活に対する不安がハムを襲ったと思います。その結果「裸を恥ずかしい」という思いになり一連の行動になってしまったのではないでしょうか。
またノアにおいては「信仰基台」を通して神がノア自身を愛して下さっている事を再確認したはず、その愛をもって妻や子供達を見つめたなら妻や子供たちの肉心からくる不安や恐れ、心配を察し、神様からの愛でもって愛しそのような思いを聞いてあげたらよかったのではないかと思います。そのような愛を受けた妻や子供は生心を主体として肉心を対象として不安や恐れ心配を払拭でき、父の裸を「何か意味があるのではないか」と思えたのではないかと・・・(図21)
もう一つの観点としてハムが失敗した要因に、ノアの妻の子育てにあるのではないかと思います。ノアの妻は肉心からくる「不安・恐れ・心配」をそのまま子供たちにぶつけていた可能性があります。母親からのそのような授受に対して子供たちの「不安・恐れ・心配」が増幅されたのではなかったかと思います。その結果ノアの裸を肉心で見つめてしまったのではないかと・・・(図22)
イサク献祭までの3日間、アブラハムはいかに過ごしたでしょうか。本来イサクの家からモリヤまでは半日で行ける距離だったと言われています。この期間、サタンはアブラハムの肉心に対して働きかけ過剰な不安、恐れ、心配を持つようにしむけたでしょう。「我が子を殺せというような神が愛なる神か?子孫が生み増えると約束したのはうそではないか?」などアブラハムのこころが「邪心」の状態になるように語りかけたのではないかと思います。
神様はアブラハムの生心に対して、イサクもアブラハム自身も神様が愛しておられることを悟らせようと働かれたでしょう。結果から見るとアブラハムは生心を主体にイサク献祭に望むことができたことが分かります。(図23)
またサラはアブラハムの失敗を責めることなく生心を中心にアブラハムを後押し、アブラハムの肉心からでてくる不安、心配、恐れを聴いてあげることが出来たのではないかと思われます。(図24)サラはイサクに対しても、イサクの生心がしっかり育つように子育てをしていたと思います、そうでなければ自分を殺そうとする父親を前に「何か意味がある」とは到底思えなかったでしょう。(図25)
アブラハムとイサクがモリヤの山を二人で登っていく場面でこんなやり取りをします。「燔祭の小羊はどこにありますか?」とイサクがアブラハムに聞きます。この時のイサクのこころの状態はどのようになっていたでしょうか?生心を主体にした良心の状態か?肉心を主体にした邪心の状態か?結果としてイサク献祭が勝利しているのを見ると、イサクのこの言葉は生心を主体にした状態で言ったことが伺えます。ですから父アブラハムも「神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と冷静に答えられたのだと思います。またこの言葉を聞いたイサクも父の背後に神様がともにおられることを確認できたのではないかと。父子のこころの状態が生心を主体、肉心を対象に置いていたので、肉体の死に対する恐怖を払拭できたのでしょう。(図26)
イサク家庭での母リベカと次男ヤコブとのやり取りを見てみましょう。母リベカは神のみ意を理解していましたので、イサクの祝福は弟ヤコブが受けなければならない事を知っていました。しかしヤコブは母からのその事を告げられると、自分の肉心的不安から「・・・かえってのろいを受けるでしょう」と母リベカに不安をぶつけました。母リベカは、ヤコブの言葉を生心で受けとめ「あなたがうけるのろいは私が受けます」と発言し、ヤコブの不安を払拭し父の元に行けたのだと思います。(図27)妻リベカは夫イサクに対しても「エソウからの恨みは私が受けますので、騙されたふりをして弟ヤコブを祝福して下さい」と懇願していた可能性もあります。
さて、ヤコブが21年路程を終えて帰ってくるときに兄エソウは400人の軍隊を率いてヤコブを待っていました。これは明らかに肉心を中心としたこころの状態です。エソウはヤコブが帰ってくることによって、部族の中での生存権、繁殖権、保護圏などへの不安、恐れ、心配を抱いたのではないでしょうか?この時ヤコブは生心を主体に神様に祈り知恵を与えられ、兄エソウが不安に思っているものを全部差し出しました。21年間騙されながらも得た、財物、召使、愛する家族を全てエソウに与えました。最後自らもひれ伏しながらエソウの元に行きました。その時エソウの肉心から出てくる不安などが払拭され、エソウ自身も生心を主体にしたこころの状態になり二人は泣きながら抱き合ったと見ることができるのではないでしょうか・(図28)
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