肉心を主体としたこころの状態での人間関係は堕落性がでてくるので、基本的に「嫌な気持ち」になる、このとき生心を主体とした見つめ方を意識します。これを心の目で見ると表現します。また「嫌な気持ち」になるという事はこころの状態が肉心が主体の邪心になっているという事を確認ができるという言い方もできますね。
この嫌な気持ちになったときに、相手もそのような状態の場合が多いです。このままの状態で授受作用するとお互いの肉心から出てくる不安、恐れ、心配が増幅し最後は破壊行動(言動)に至り関係性が崩れます。(図31)
この時まず講座4であった様に自分の肉心からくる不安、恐れ、心配をしっかり傾聴し落ち着いたところで下記の①~⑩の文章をこころの中で読んで、生心主体の見つめ方に転換していきます。すなわち良心基準で見つめるように、愛の心で見つめるように。
※目の前に嫌な気持になる相手がいる場合はなかなか①から⑩までの文言をいう雰囲気ではないと思います。ですからその場ではどれか一つの文言を短く覚えておさめて、瞑想の時間などに改めてその時の出来事を思い出して①から⑩の内容をしっかりと唱えて整理しましょう。
①真の愛を中心として正しく見せてください。
②生心を中心として相手の本心・良心を見つめます。
③生心と肉心を一つにして、お互いに1つになって、幸福になりたいと思っています。
④そうでない言動をとるのは〇〇さんの過去に何かがあったからだろうか?
⑤〇〇さんの中の囚われ(固定観念)があって苦しんでいるのかもしれない、何か思い通りでないことが2~3続いて、いっぱいいっぱいになっているのかもしれない。
⑥私もそんな苦しいとき、配慮のない言動をとってしまうことがある。
⑦私にもそんな弱さ、未熟さ、不器用さ、器のなさがある。
⑧〇〇さんも、私も同じ存在なんだ。
⑨今では〇〇さんの事情・心情が見えてきます。
⑩可哀想な、また助けてあげたい人であると理解できるようになります。
参考エピソード
淵田 美津雄さん:真珠湾攻撃の総指揮官
「戦場ではたくさん殺したほうが勲章にありつける 私の青春はこの一日のためであった」「基本的な目標はアメリカ人を殺して殺して殺すことだった。皆殺しにして最後までアメリカを苦しめることができるように」
ジェイコブ・デシェーザーさん:真珠湾攻撃を見て軍隊入隊
名古屋空襲の際300発の焼夷弾、民間人にも機関銃(軍の命令にはなかった)「今に見ていろ ジャップめ 必ず復習してやる」
「人として日本人は最低の部類に属する。これほどすさんだ環境に遭遇したことは人生で初めてだった。私は気が狂うほど日本人が憎くてならなかった」しかし空襲後、80人の乗組員のうち8人が日本軍に捕えられました。ディシェイザーさんもその一人でした。中国で不時着した場所が日本軍の占領地だったのです。上海で裁判が開かれ国民学校の児童を殺したなどの罪で3人が処刑されました。ディシェイザーさんなど、残りの5人は終身禁固刑となりました。収容所生活は過酷をきわめました。しらみのわく独房で食事はわずかな米とミミズの浮いたスープでした。尋問の時には激しい暴力もふるわれたと言います。
この二人が真ん中の写真のようになった原因が、お互い聖書と出会いみ言を実践し生心を主体として見つめる事ができたからなのです。
ディシェイザーさんが日本軍に捕えられて1年半が経ち、南京で収容されていた時のことでした。仲間の一人が赤痢で亡くなり、形ばかりの葬儀をすることになりました。その時、青田さんという日本人看守の一人がこっそりディシェイザーさんに聖書を差し入れてくれました。ディシェイザーさんは戸惑いながら聖書を受け取りました。キリスト教徒の家に育ちましたが、聖書はほとんど読んだことはありませんでした。むさぼるように読みふけり、ある一説に大きく心を動かされたと言います。
「父よ、彼らを赦し給へ。その為(な)す所を知らざればなり」
「彼ら」とはキリストを磔(はりつけ)にするローマ兵とユダヤ人のことです。残酷な仕打ちを加える日本人たちもまた自分たちが何をしているのか分かっていないのだ、ディシェイザーさんは、反抗してばかりいた日本人看守への態度を変えてみようと思い立ちました。
「こんな日本人をどうやって愛せるんだ。ひどい本当にひどいやつだ。そんなやつを愛さなければならないのか。扉に近づいたら看守が来た。私はのぞき窓に顔を近づけて、おはようございますグッドモーニング サー、そう言ってにっこり笑った。すると看守はとても驚いていた。私は毎日そんなふうにおだやかに振るまった。すると6日目の朝に当番の看守がやって来て食事用の小窓からゆでたてのおいしいサツマイモを差し入れてくれた」
その後開放されたディシェイザーさんは本国に帰り熱心なキリスト教徒となり、日本に宣教師として来日します。
一方、淵田さんは敗戦の失意から抜け出せないでいました。1949年12月、淵田さんのその後の人生を大きく変える出来事が起こりました。GHQの取り調べを受けるため、渋谷駅に降り立った時のことでした。アメリカ人がキリスト教布教のパンフレットを配っていました。淵田さんも差し出されるままに受け取りました。タイトルは「私は日本の捕虜でありました」あのディシェイザーさんが書いたものでした。そこには真珠湾攻撃に始まる日本人への激しい憎しみを断ちきった体験が書かれていました。自分もまた抑えきれない憎しみを抱えていた淵田さんはすぐに聖書を購入。農作業の合間に2ヶ月をかけて読みました。淵田さんは最も感銘を受けた一説を書き記しました。
「父よ、彼らを赦し給へ。その為(な)す処を知らざればなり」
ディシェイザーさんが心動かされた言葉と同じでした。「私はハッとした。彼らをお赦し下さいという彼らの中に自分も含まれている。私は軍人として戦争もまた正義の名において平和へ至る道だと心得ていた。私は自分の罪を自覚した」
淵田さんはキリスト教徒となることを決意しました。淵田さんはすぐにディシェイザーさんのもとを訪ねました。ディシェイザーさんは真珠湾の指揮官がキリスト教徒となったことを祝福しました。そして淵田さんはディシェイザーさんが日本人への憎しみをどう断ちきったのか話に聞き入りました。「捲土重来(けんどちょうらい)、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)などと言っていた自分が恥ずかしかった。私は祖国を愛するあまり火のような敵がい心を抱いて戦ってきたが偏狭にして独善なものがなかったか。私は無知だった。それが悲劇を生んだのだ」
その後淵田さんも熱心なキリスト教徒なり、なんとアメリカへ宣教師として渡米します。
淵田さんの娘・美彌子(みやこ)さんはアメリカ人と結婚し、カリフォルニアで家族を築いています。美彌子さんが海兵隊員のアメリカ人と結婚したいと言い出した時、母親や親戚が反対するなか父親だけは賛成してくれました。国籍を越えて家族となることには特別な意味があると考えていたのです。「父は『いろんな国が混ざれば混ざるほどいい。お互いをもっとよく理解することができるようになる』と言っていました」(美彌子さん)亡くなる直前まで淵田さんは伝道で繰り返していたある言葉を周囲に語っていたと言います。
「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む。そして憎悪こそ人類相克の悲劇を生む。無知から生まれる憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬ。これこそ『ノーモア・パールハーバー』の道である」
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